廣瀬治助のことなど

江戸時代の京都には大名屋敷が多数ありました。

主な職務は当時の手工業の中心であった京都の織物や調度品の調達と伝統的な有職

故実の調査などでしたが、幕末になると政治的に重要な舞台として脚光を浴びるこ

ととなりました。当時の地図を見ると、各藩の屋敷が街中に散在しているのが解り

ます。

例えば同志社大学の今出川キャンパスは薩摩藩の敷地と公家屋敷跡であり、所在を

示す石柱が校門の傍らに立っています。しかしその後、明治維新で東京奠都となり

廃藩置県の制度が実施されると、急速に消滅しました。

 中京区六角通油小路西入の地に郡上八幡藩青山氏の屋敷がありました。1340坪の

広さがあり、庭には300坪の大きな湧水池があったそうです。中の島に弁才天と竜

神を、岸に稲荷明神が祀られていました。

室町時代に杉若越後守という武家の邸宅があったところから現在越後町の地名を残

します。三つの詞堂は明治になって統合され越後神社となりました。近年まで「青

山屋敷」の名は残り、神社への参道は今も青山露地と呼ばれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 豊富な池の水を供給していたのは京都盆地の地下水脈で、この地にある京菓子の

老舗「亀屋良永」「たちばなや」は現在も地下水を使い、地域の人々も希望すれば利

用できるそうです。この水脈は醒ヶ(さめが)()通の名の由来で、南に流れ五条を過ぎた処に

「佐女牛井」の石碑が立っています。

 豊富な池の水に着目し利用した人物が、型紙を用いて「写し友禅」を初めて事業

化に成功した備後屋廣瀬治助、通称「備冶」で、明治14年頃に技術を確立して、

21年にこの屋敷地に2棟の工場を建設し、一時は職工60人を抱えて活況を呈した

ということですが、その後経営に失敗して引退し、23年に69歳で逝去しました。

しかし、この技法が発展してスクリーン捺染と呼ぶ一大分野になったことは周知

の話です。

 この湧水池は都市開発の影響もあってか水量が減少し、現在は数坪に満たぬ池が

寂しく名残を留め、池の傍に「型友禅の祖 廣瀬備冶翁遺蹟」と記した碑が立つだ

けですが、越後神社は別名友禅神社とも呼ばれ、毎年4月の例祭に合わせて友禅業

者の団体が廣瀬治助を中興の祖として顕彰する儀式を行うと聞いています。

 明石国助氏は染人という号で有名な染織研究家で、戦後の一時期に本学の講師を

されていたのでご存知の方も多いと思いますが、偶然ながら昭和28年発行の氏の

監修になる「宮崎友禅斎と近世の模様染め」という本を見る機会がありました。

 内容は「近世模様染の発達」「宮崎友禅斎の生涯」「友禅斎の著書作品及び年表」

に続いて、「鶴巻鶴一博士と近世の臈纈」「廣瀬治助翁と写染」の章を設けて事績

を解説されています。 一見の価値ある資料として一読をお勧めします。

 

                         (昭31・色染 和田弘)

 

(参考:故松尾秀明氏調査資料より)

 

  【明石 染人氏略歴及主要著書】

明治2056日 京都山科に生る 本名は国助

明治383月   京都府立第一中学校卒業

明治427月   京都高等工芸学校色染科卒業

明治4311月   京都高等工芸学校助教授拝命

大正 9 11月    鐘淵紡績株式会社入社

昭和 94月    同社京都工場長となる

昭和94月    エジプト及びヨーロッパ各国に出張を命じられる

昭和222月    同社病気のため退社

昭和10年〜28年  旧恩賜京都博物館学芸委員嘱託

昭和25年〜34年  文部省文化財専門審議会専門委員に命じられる

昭和28年〜34年  奈良正倉院御物古裂調査委員

昭和303月   社団法人日本工芸会設立発起人となる

昭和32年〜34年  京工大会第4代理事長

昭和34127日 死去

【主要著書】

時代裂        昭和612

琉球染織名品集    昭和297

埃及コプト染織工芸史 昭和307

宮崎友禅斎と近世の模様染  昭和2811

図説日本染織史    昭和273

日本染織文様集    昭和341


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