京都高等工芸学校が生まれた背景

 わが母校《京都工芸繊維大学》の前身【京都高等工芸学校】は明治35327日(1902年)に勅令第98号により京都市左京区吉田町に設置されたとあります。

 校名は工芸学校となっていますが、明治32年の文部省令第8号によって定められた「工業学校規定」に基づいているので、明治34年に出来た【東京高等工業学校】と同じ文部省直轄の工業学校として生まれています。
明治
38年【名古屋高等工業学校】もこれと同じでしょう。母校が松ヶ崎に移転したのは昭和5年のようです。

 浅井忠図案 梅図花入(本学蔵) AN.3283

*工業と工芸の使い分け*

 だが、この当時の文部省自体が【工芸】と【工業】をはっきりと使い分けているのです。《工業とは工場などで集約;大量生産するもの》《工芸は職人徒弟制度で技術を重んじながら集中制作するもの》との認識だったようです。

 これより少し前、美術工芸学校設置案が議会で認められています。この制定は明治32年第13帝国議会に於いて美術工芸学校を設立するべき決議があり、当時文部省もまたその必要を認め、明治33年第14議会に際し創立の費用支出を認めているようです。

 しかし何故この時期に【京都高等工芸学校】が設置されねばならなかったのかと言う時代背景は何処にも書かれていないし現代の我々は想像するしかありません。京都新聞20071125日(日曜日)文化欄には立命館大学教授《島田康寛氏》によりこの経緯が詳しく述べられていますが時代背景には一切触れられていません。


*日清戦争との関連*

 明治27年(18948月ようやく近代的な国家体制を確立できた日本は清国との外交交渉に痺れをきらし、清国に宣戦布告をします。翌年4月までに(黄海の海戦)や(旅順港の攻略)等着々と戦果をあげ、下関条約を締結し賠償金35千万円を獲得しました。
これが日本に対する3国干渉を呼び、外交的に孤立の方向に向かい始めたようです。

このような時期に初代校長になる中沢岩太はベルリン大学に再留学しており、これまで輸出産物として比較的好調であった日本の焼き物や美術工芸品が売れなくなる実態をドイツで実感しているのです。


*中沢岩太の人物像*

中沢岩太とはどのような人物であったかを簡単に述べます。
彼は安政
5年(1858)越前松平家下級武士の長男として福井に生まれました。東京大理学部化学科を首席で卒業;明治16年ドイツ:ベルリン大学へ留学;帰国後ドイツ人教師ワグネルの助教をへて、明治20年東京帝国大工科大教授となり、応用科学を担当します。
しかし前任の教授たちと意見があわずドイツに再留学したようです。

再帰国後彼の才能を惜しんだ文部大臣蜂須賀茂韶から彼を京都帝国大学の一つ理工科大学長に推薦されて京都に赴任してきます。

しかし、学長に就任したものの数年後にには大学を去り、明治
35年自ら設立にかかわった京都高等工芸学校の初代校長に就きます。
 理工科大を去ったのは年長の教授陣との間で意志疎通を欠いたためとも言われていますが、東京帝国大学を去ったのと同じ事由のようです。
昭和
24年京都工芸繊維大学設置とともに初代学長に就任した中沢良夫の父親であり、中沢良夫は高校野球連盟の会長を長年務めていたことで著名です。

中沢岩太像 浅井忠作 油絵(本学蔵) AN.3278

*日清戦争の賠償金*

 所でこの賠償金は現在の価値に直すとどのくらいの金額だと思いますか?。日清戦争では清国通貨にして銀二億両(テール)の賠償でしたが、日本は英ポンドで支払うよう要求。清国は、外国から借金して相当の英ポンドを用意3年分割でイギリス・ポンド金貨建て口座から、日本に小切手で払いました。

 当時の大国は金本位制といい、その国の有する金を裏づけに紙幣をつくり、要求されれば金に交換してくれました(兌換)。日本は、英国政府に、英ポンドを返却、大量の金と交換してもらいました。当時で3億円、時の日本政府予算数年分ですそれを円の準備金とし金本位制を導入するとともに、新規に発行した紙幣を八幡製鉄所建設などの資金としました。時代が異なり金、銀の評価も今とは比較できませんが、恐らく今の金額にすると2030兆円に相当するはずです。
この行為が英国を中心に全世界の批判を受けることになり、牽いては後の日露戦争の引き金に繋がっているようです。

 日本に帰国していた中沢岩太は明治32年に決まった【京都高等工芸学校】の初代校長に任命され、明治33年政府の要請を受けこの年パリで開かれていた万国博の視察に出かけました。以下京都新聞の記事を転載します。


意匠教育で京の工芸革新《京都新聞記事》

明治時代、京都の美術工芸の振興に大きな役割を担った人物として、必ず名前が挙がるのは洋画家の浅井忠だ。東京から京都に移り住み、洋画発展の礎を築いただけでなく、工芸の世界にデザインの考えを注入し、その後の展開に多大の影響を与えた。

だが,浅井の陰に隠れて目立たないが、もう一人忘れてはならない重要な人物がいる。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大)初代校長の中沢岩太だ。

立命館大の島田康寛教授は「もし中沢がいなければ、浅井が京都に来ることもなかっただろうし、京都の美術工芸史はどうなっていたことか。ある意味で、浅井以上に重要な役割を演じた人物」と話す。

中沢は本来美術畑の人ではなく、応用科学の専門家。東京大学理学部で、ドイツ人教師で化学者のゴッドフリード・ワグネルについて助教を務めたこともあり、彼とのつきあいが、美術工芸に深くかかわる契機となったとみられている。
ワグネルは有田で製陶の近代化を指導したり、京都の舎蜜局で陶芸や七宝の指導をした経験があった。

 その中沢が浅井忠と出会うのは1900年。京都高等工芸学校の開設に向けた視察で、パリ万博を訪れた時だった。
従来の伝統工芸品の輸出が下火になり、産業振興の面から工芸の意匠教育の大切さを痛感していた中沢は、東京美術学校長就任を控えた正木直彦から同校教授の浅井を現地で紹介され、「京都へ来ないか」と声をかける。
浅井はデザインを重視する中沢の考えに賛同し承諾。やがてデッサン用の石こう像やポスターなどの資料を収集して帰国,図案科教授として中沢とともに工芸の刷新に力を尽くすことになる。《京都新聞記事》





浅井忠図案 朝顔蒔絵手箱 AN.1617
浅井忠図案 菓子皿 AN.3442
(本学蔵)

浅井忠とともに洋画の礎も築く

 明治20年代半ばにドイツ・ベルリンに留学し、日清戦争で3国干渉を呼び伝統工芸品の輸出が何故下火になったのかを痛感していた中沢は当然のことながらデザイン面を重視しなければ伝統工芸品の輸出復活はありえないと浅井に説いた筈です。
 平成223月本校の創立60周年記念行事が開催され、そこに浅井が持ち帰ってきた数々の素敵なポスターが展示されていました。同時に初めて知りましたが浅井が京焼のデザインを試みており、それも貴重な作品として展示されていました。
 また浅井が中沢とともに創設した《関西美術院》からは、梅原龍三郎 安井曾太郎等日本を代表する洋画家が輩出しています。


*浅井忠の人物像* 

 本校の設立に密接な関係がある 浅井忠 とはどんな人物だったのでしょうか。1856年、浅井忠は江戸の佐倉藩中屋敷で藩の要職を務める父のもとに生まれました。しかし、1867年、浅井忠が12歳の時、大政奉還から明治維新へと時代が動き、武士としての未来と価値観が音を立てて崩れ去りました。明治政府は欧風化による近代化を目指し、日本の伝統を否定しました。

(以下京都新聞社(1982年9月)発行「ブリヂストン美術館名作展集」より抜粋転記)
『そんな時代の流れの中で、1876年、明治政府は外国人教師を招いて工部美術学校を創立しました。
浅井忠がその第1期生として入学したのは、20歳の秋のことでした。

 浅井が頭角を現したのは、風景写生に出かけた時のこと。写生に行っても少しも描かず、帰る前になると少しばかり描き、それが教師に称賛された。
浅井にはフォンタネージが言う「自然の真実の歌声を聞く力」が備わっていたのでした。浅井の初期のデッサンを見てみると、対象の細部を略して頭に残った自然の印象を強調し、いかにもフォンタネージ風。

 ところが来日から2年後、フォンタネージは失意のままイタリアへと帰国してしまいます。あんなに美術学校に力を入れていた明治政府が、さらに発展させようというフォンタネージの案を実現させなかったためでした。その上、彼は病に冒されていました。
師を失った浅井たちは退学し、そんな彼らにさらなる苦難が襲います。東京帝国大学にアメリカから教授として招かれたアーネスト・フェノロサが日本の伝統美術を称え、油絵は歴史を顧みない有害文化であると決めつけたためでした。

 明治20年代になり洋画興隆の気運が盛り上がりかけたところへ、明治26年(1893)黒田清輝がタイミング良く帰国し、その明るい印象派風の筆致によって一躍画壇の寵児となります。黒田らは新派として持てはやされ、浅井らは旧派として時代遅れのように言われました。
 その後浅井は、明治31年(1898}黒田と並んで東京美術学校教授に任命されますが、角逐を嫌って翌年から2年間にわたってフランスへ留学します
フランスではグレー村で美しい風景画を描き2度目の高揚期を迎え
ますが、帰国後は東京へ戻らず京都の高等工芸学校の教授として赴任して来ます。次第に隠遁の心持ちを強くしていくのでした
明治
40年(1907)京都帝国大学病院にて没す。享年51歳。』 

浅井忠作 武士山狩図
(本学蔵) AN.3279

第1回 文展出品作

中沢と浅井の二人で工芸を技術でなく美術と見る
                      《京都新聞記事》


 当時の日本の工芸品は、古物の写しのようなものばかりで、新しいものを作ろうという気概がなかった。パリで中沢と浅井は、日本美術の影響を受けたアールヌーヴォーの斬新なデザインに接し、日本の工芸の遅れを痛感したはず。このままではいかんという危機感が二人を結びつけたのだと思う。

中沢は浅井のほか、建築家武田五一、染織家鶴巻鶴一らを率いて同校で意匠教育に力を注ぐ一方、京都四園と呼ばれる工芸作家らの研究会、すなわち「遊陶園」(陶磁)「京漆園」(漆工)「道楽園」(染織)「時習園」(各分野)の各園長を務め,図案家と実作者の共同作業を通じて工芸の近代化を進めた。また洋画家らの団体:関西美術会の会頭を務めたほか、浅井とともに関西美術院を創設、京都洋画の発展にも大きな役割を果たしている。「中沢の偉大さは、工芸を技術ではなく美術として捕らえ、教育を行った点にある。その功績はもっと評価されてもいい。時の文部大臣蜂須賀が中沢にかけた一本の電話が京都の歴史を動かした。そういっても決して大げさでは無い」《京都新聞記事》

右の写真は中沢が浅井忠に次いで図案の教授に招いた武田五一の作品である。現在ならごく普通の一般的なものです。
 だがこの椅子は今から100年以上前に制作されたものなのです。武田五一に次いで図案の教授に採用される本野精吾も彼の東京帝国大学建築学科の同僚で、建築家として著名ですが、二人とも1900年に開催されたパリ万国博のデザイン;アールヌーボーの影響を大いに受けているように思えます。

 中沢と浅井が如何に意匠と図案の教育に重点を掲げていたかが、しみじみ理解出来てきます。
工芸という考え方について今回色々調べている内に《東京高等工芸学校》というのが文部省により設立されている事が判明しました。工芸学校はこの他大阪にもあったようで、九州にも存在したかもしれません。

 この学校は昭和20年のどさくさの際に現在の《東京工業大学》と《千葉大学工学部》にそれぞれ分割されて移管されているそうで、大阪は今の阪大でしょう。
 100年以上前のこのような現物が保管されているのは本学美術工芸資料館だけであり、その事実さえ知らなかった我々卒業生は余にも恥ずかしいと感じました。






武田五一作 小椅子 AN.1110
(本学蔵)






武田五一作 楽掛椅子 AN.1111
(本学蔵)

資料引用 京都新聞(20071125日(日)文化欄) 浅井忠と京都(本学美術工芸資料館)2010-3-15
     1902年の好奇心(京都高等工芸学校美術研究会編 光村推古書院 200311月(発行)

                                          (色染・昭35 松尾秀明)


        本学の歴史

  
どうして京都高等工芸学校が生まれたか


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