文様染の系譜
(2)








むかし、おとこ初冠(ういこうぶり)して、奈良(みやこ)、春日の里にしるよしして、狩()にけり。
云々は伊勢物語の書き出しだ。元服の終わったばかりの、初々しい二人の若者が早速ガールハント
始める。一人は女たらしの業平と思しき人物、相手は春日の里で見かけた美しい姉妹の姫達、その魅力に
あやしく心を乱す。唯今時の若者と違うのは仕掛けと教養とその背景となる文化の違いだ。
少年は着ていた衣の裾を切って、歌を書いて贈った。それは「しのぶずり」の紫の狩衣であった。
 

春日野の 若紫のすりごろも しのぶの乱れ 限り知られず

春日野の若い紫草のように美しい貴方達、ぼくの気持は此の紫のしのぶずりの衣のように、
千々に乱れてしまいましたと、思いを若々しい
三十一(みそひと)文字で決めている。

みちのくの しのぶもじずりだれゆえに 乱れ染めにし われならなくに

 これは御存じ小倉百人一首の源(とおる)、通称河原左大臣と呼ばれていた人の歌で、軟派のモデル、
在原業平とは同時代の人だ。若者(業平)古今和歌集に収録されているこの有名な歌をチャント
覚えており、それを下敷きにして、先の歌を作ったのだろう。
三省堂の広辞林によると「しのぶもじずり」は、シノブグサの茎と葉の色素を布に摺り付けたもの、
その模様のもじれ乱れているところから
忍捩摺(しのぶもじずり)と云うとある。
或いはまた
陸奥(みちのく)の国信夫郡今の福島市に捩れ乱れた模様のある石があって、
それに布を当てて摺ったからとも言う。
 時代は下り、江戸時代に松尾芭蕉は此の石を見る為、信夫まで出向いたと、奥の細道に書いている。
此の時、石は裏向きに畑に転がされており、文様を見ることが出来なかった、とも書いている。
実は私も、甥の結婚式に福島を訪れた時見に寄ったが、取り立てて言うほどの事もない普通の石が
観光客の為に作ったと思われる柵の中に転がっていた。


1 モスリン友禅 田村駒資料室

この歌は先に述べた様に古今和歌集にも収録されているが、それが撰進されたのは延喜五年で、
この年は律令の施行細則である延喜式の編纂が始まった年でもある。

延喜式は禁中の年中儀式や、百官の儀、作法等を記したものだが、服色のことから染色法まで具体的に記
載されている。色目として64の色名が上げられているが、その中に
蓁摺(はぎずり)、紫摺、黄色摺が含ま
れており、染法は赤、黄、紫、緑、
(はなだ)(
)等の他に、雑染として摺り染めの事が記されている[i]

織物の上に多色の文様を表現するには、糸を染色して織柄として表現する、色糸を使って刺繍をする、
色素を直接布に摺り付ける等の方法がある。第三の方法は、この後ドンドン進化し現在の捺染に到達する
。その勢いは止まず今も進化は続行中だ。

日本の文様染を語る時、「摺り」と言う語について、語らなくてはならない。

前回彩絵と摺文について少し触れたが、摺文についてもう一度触れる。

摺文は版木の表面に顔料や染料を塗り、その上に布を静かに置いて、「ばれん」のような物で均等に布の
裏から摺って文様を布にうつす。この方法は柔らかい布地の場合、紙のように正確な型合わせをすること
は困難で、二色、三色の多色ものを摺りあげる事は更に困難だ。事実摺文には一色物が多いと報告されて
おり、例えば、平織りの光沢のある無地の織物に、胡粉を用いて艶消しの摺文を行い、紋織りのような効
果を求めた。此の事に関して、我らの明石染人先生は次のように所信を述べている
*[ii]
「布を平らかな、柔らかい平面に拡げて置き、顔料や染料を塗った版木を布の上にあてて、
強く圧するか、槌で打って文様をうつす方法で、これなら布が静止状態であるため、多色の文様も染める
ことが出来る。この技術はインドをはじめ世界の国々で行われる、ブロックプリント(木版捺染)法で、
なぜ我が国で普及しなかったのか不思議でならない」。柔らかい台上で捺すので、ソフトテーブル法と
名付け、此の方法をインド式とする。

 西欧に於ける、特筆すべき印刷技術に銅版印刷がある。銅板に耐酸ニスを塗り、これに鉄筆で文様を描
き、酸によって腐食させる。
所謂エッチング法による製版である。此の方法の欠点は、日本の摺文と同じ
で、連続柄、多色柄に不向きだ。しかし後に、円筒に銅版を巻きつけ印捺ロールへと発展し、二つの障害
を見事に克服する。ブロックプリントが凸版なのに対して、此れは凹版で、印捺方法はソフトテーブルに
属する。この方法を西欧式とする。

中国には、古くから拓本の技術が伝承されている。此れは印刷技術の一つであるが、石碑から文字や絵
画を写し取るのである。岸壁に絵画、仏像、文字が彫ってある。これを
()(がい)と言う。切り出して
きた自然石に文字を彫ったものを
(かつ)と言い表面を方形にして磨きをかけたものを碑と言う。
拓本を取る時は、表面の異物を取り除き、表面に水を打って紙を密着させる。洋紙は不向きで手漉きの和
紙が良い。紙の表面を入念に摺り碑に密着させる。そして紙の上から、墨汁を浸した「たんぽ」で叩き字
を写し取る。木版と違い、重いので型を動かすことは出来ない。これに対し軽く小さな物を印と言う。

印は朱肉を付けて捺印する。これらは早くから日本に伝えられたが、文様染に直接応用されることはなか
った。日本が模範とした唐の社会は織物技術が先行し、文様染めの優れた物は、周辺諸国から持ち込まれ
ていたのかも知れない。唯印花布は型紙を使い、摺りによる文様染であるが、日本の型染めとは異なった
趣を持つ。

 日本では室町時代から和紙に柿渋を塗り、防水、補強した型紙を用い、布を板に貼り付け、ぼたん刷毛
で摺り、着色する合羽摺りが普及する。江戸時代盛んに行われた摺匹(すりひつ)()(すり)友禅(ゆうぜん)
(すり)更紗(さらさ)
等がそれである。同じように、型紙を用いて綿布に、防染糊を箆で摺りつけ、藍染めした
ものを型染めと呼ぶ。いずれもハードテーブル法による、文様の表現であり、この方法を日本式とする。



図2 型染 丹波木綿 萩原蔵 図3 型染 丹波木綿 萩原蔵


図4 型染 丹波木綿 萩原蔵 図5 型染 丹波木綿 萩原蔵

話が少し横道へそれるが、今回日本の捺染について、その辿ってきた道を、確かめてみたくて筆を執っ
た。しかしいくら探しても、捺染の捺の字は古代から江戸時代に至るまで、染色用語としては出てこない
、専ら「はんこをおす」時に使われるだけだ。専門用語「捺染」という語は、明治二十年頃突如文書に現
れ染色家を驚かす、作者不明の造語である。関西では
捺染(なせん)と言うが、正しくはなつせんと言う
。学研の漢和大辞典によると、捺は上から下へとじりじり押しつけること表わす。此の字はブロック捺
染や、それを機械化したローラー捺染機による、文様出しを表現するのにはピッタリの字だ。

此の他に、同じ事を表す字に刷と印と摺とがある。中国では印の字を用い、捺染のことを(いん)()
とする。我が国では型による伝統的な文様染は凡て摺りを用いる染物ではないが、世界に誇る江戸錦
絵は木版印刷であるしかし捺や刷は用いない。版の彫刻面を上にして、刷毛で顔料を塗付し紙を置いて
裏から馬連で摺る。型合わせは紙の収縮を安定させる為に、充分湿度を持たせ版の両隅に彫った見当と引
きつけを頼りに、多色の毛抜き合わせ(緻密な型合わせ)を見事にやってみせる。錦絵海を渡り印象派
の巨匠達に影響を与えたことは衆知するところだ。

世界のブロックプリントが捺であるのに対し、独り我が国だけが摺であった。そしてこの技術が、文様
染に転用されることはなかった。問題は、此の方法では銅板印刷がそうであったように、版を送って連続
させる事が出来ない。但し色数は版木を増やし、無限に多くすることが可能である。書き残したが、刷は
印刷に用いるが染色には用いない。

日本と同じように、摺りによって文様染をする人たちがオセアニアの島々に居る[iii]
桑科のカジの木の外皮を捨て、内皮をハンマーで叩き伸ばし、繊維を絡ませた不織布をタパと呼ぶ。
衣料、寝具、敷物、タピストリー、祭儀の道具、贈答品等用途は広く、目的に応じそれに相応しい伝統的
文様を付ける。フィジー島では、バナナやパンダヌスの葉を切り抜いて型紙を作り、バンダヌスの果実に
ある繊維に色素を含ませて着色する。葉っぱの型紙は破損し易いので、日本の型紙同様注意深く、摺り込
まなければならない。


図6 原始不織布 タパ 萩原蔵 図7 原始不織布 タパ 萩原蔵


[i] 京染の秘訣 高橋新六 神陵閣書房 昭和4年2月11日第4版 P22P23

[ii] 染織史考 明石染人 思文閣 P5P17

[iii] タパ 福本繁樹 198321日 じゅらく染色資料館

                                              (色染・昭28 萩原理一)


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