奈良のこと(古都)
(3) 東大寺(大和国金光明寺)
奈良に来た観光客の大半は、東大寺の大仏さんと奈良公園の鹿がお目当てのようである。
*金光明四天王護国之寺*
聖武天皇が長男基(もとい)親王の菩提を弔うため、728年に建てた「金鐘山寺」が東
大寺の前身と云われており、現在の三月堂(法華堂)の北半分がそれに当たるそうである。
741年に詔が発せられ全国に国分寺が建立されるが、その大本締めとして金鐘山寺が昇
格して「大和国金光明寺」(金光明四天王護国之寺が正式名称)となる。
国分寺は全国に70寺建立されるが、国家の平安と国民の幸福を護ることを目的として
いる(天下泰平・万民豊楽)。
奈良時代のお寺ではお葬式をしない。(今でも同じ)
南都6宗(法相、倶舎、三論、成実、華厳、律)は平安2宗(天台、真言)と異なり、学
問的な仏教の研究が目的で、現代の大学に近い存在であった。国家鎮護を願って、仏教を
通じて先進文明の導入を計り、政治や文化の発展に寄与した。(政治的には、平安遷都の
時に政治への介入が嫌われ、お寺は奈良に取り残される事になる)
平安2宗は民衆個人の救済を目的としており、勿論お葬式もする。東大寺や興福寺には檀
家が無く、寺の僧侶が亡くなると、他宗に頼んで葬式をしなければならない。
*東大寺*
都の東にある大寺なので、東大寺と呼ばれるようになった。南大門に「大華厳寺」の額
が掲げられているが、東大寺の別称で華厳宗のお寺である。
奈良時代のお寺は通常南
向きに建てられている。
南側の南大門がお寺の正門
である。
主な建造物は、南大門(国
宝)、大仏殿(国宝)、三
月堂(国宝)、二月堂(重
要文化財)、転害門(国宝)、
鐘楼(国宝)、戒壇院、正
倉院(国宝)、などである。
(正倉院は明治になって東
大寺の手を離れ、国の所有
となっている)
国宝や重要文化財の仏像も
多く、大仏、南大門の金剛
力士像、戒壇院の四天王塑像、三月堂の不空絹策観音や執金剛神立像、などである。
修学旅行の記念写真の定番は、鏡池の前で大仏殿をバックにして撮るが、ラッシュにな
ると順番を待つ子供達でごった返し、大変な騒ぎである。余談になるが、鏡池名前の由来
は池の中に弁天様を祀った島があり、この島に渡る道と島の形が「手鏡」に似ているから
である。
*大仏殿(金堂)*
聖武天皇の御代には良くないことが重なった。天災(地震、台風、干魃)に襲われたり、
伝染病(コレラで藤原不比等の4人の息子達も死んでしまう)が流行ったりする。天皇は
己の不徳により世の混乱が起こったものと考え、仏の力借りて国を治める決心をし、74
3年に大仏造営の詔を発した。
盧舎那仏の放つ光は宇宙の隅々まで照らし、あらゆる願いや困難を救って呉れる。通常
の仏のサイズは丈六(約3m)であるが、聖武天皇はこの10倍の大きさで作った。
十と云う数字には無限大の意味もあり、大きな力を持った仏に国家鎮護、天下泰平、万民
豊楽を願ったものと思われる。
大仏の大きさは、座像で約15m(立てば30mの大きさ)である。全身に金メッキが施
され、まばゆい姿であったと想像される。
大仏は749年に完成、752年に開眼供養が行われた。この造営に当たり、大勧進・
行基が天皇の依頼を受け、勧進を行い全国民の力を結集して完成に漕ぎ着けた。貧しき者
も、富める者も勧進に協力した。今も昔も大仏は日本国民の仏なのである。(鎌倉の再建
では大勧進・重源が、江戸の再建では大勧進・公慶が、全国を勧進し浄財を集めた。)
大仏殿はその後、二度に亘り戦火に見舞われる。
一度目は1180年の「平重衛南都焼き討ち事件」、二度目は1567年の「松永久秀/
三好の戦い」で、何れも大仏殿は全焼し、青銅製の大仏も熔けてしまう。
現在の大仏と大仏殿は江戸時代のものである。
大仏殿は創建時には11間(86m)であったが、三度目の江戸の再建時には資金不足
のため7間(57m)になってしまう。それでも容量的には世界最大の木造建造物である。
また、大仏は膝から下の部分に創建時のものが残っており、二度目の再建(1195年)
では金メッキが施されたが、三度目の時には首から下だけを作ってから、約140年間雨
ざらしとなっていた。1709年に漸く首が完成したが金メッキは出来なかった。
大仏の顔は綺麗であるが、肩から下は錆びて光沢が無いのは、140年間の雨ざらしのせ
いである。
*その他*
南大門には有名な「金剛力士像」(運慶、快慶等の作)がある。高さ8.4mで300
0個のパーツで出来ている(29人の仏師が69日間で完成した)。
南大門も1180年に焼失したが、鎌倉時代に再建されたものが残っている。この再建に
は重源が活躍した。彼は中国の最新式建築法(大仏様式)を用い、少ない木材で強い建造
物を作る事に成功した。800年経ってもびくともしていない。
大仏殿入口石段のすぐ前に立っている「八角灯籠」(国宝・高さ4.6m、日本最大の
銅製灯籠)は、二度の火災に耐え創建時のままである。
お水取りで有名な二月堂は1667年に火災で全焼するが、お水取りの法要(修二会)
は途切れることなく約1250年の間続けられている。
国宝、重要文化財の仏像がある三月堂は東大寺発祥の地であり、16体の仏像を有して
いたが、2011年10月10日に開館した「東大寺ミュージアム」に一部の仏像が移
動された。
また本尊の不空絹策観音も暫くの間、こち
らで拝観が出来るようになる。
左の写真は不空絹策観音の被る宝冠であ
る。世界三大宝冠の一つで2万個の宝石で飾
られている。三月堂では暗くて殆どよく見え
なかったが、LED照明の下で美しく見る事
が出来るようになった。(銀製の化仏を中心
に沢山の宝石が散りばめられている。)
戒壇院の塑像四天王像(国宝)は場所が離
れているため、見て貰う機会が少なく残念で
ある。
鐘楼と鐘は共に国宝で、鐘の重量は27ト
ンで重さでは日本第3位である。鐘と八角灯
籠は何れも創建時のままの姿で、大仏の下半
身と同じ銅が使用されている。
正倉院には9000点の御物があり、毎年
秋の正倉院展(奈良国立博物館)で約70点
が展示される、一度出ると10年以上再登場
は無い。2011年の第63回では有名な香木「蘭奢待」が出展され、信長や秀吉の切り
取った跡を確かめる事が出来た。
*手向山八幡宮*
三月堂の南にある手向山八幡宮は東大寺の守り神である。
ここは紅葉の名所で、菅原道真が「この度は 幣(ぬさ)もとりあえず手向山 紅葉の
錦 神のまにまに」と詠った。神社の中程に「道真の腰掛石」があり、「ここに座ると頭が
良くなると云い伝えられている」これを説明すると、修学旅行の生徒は我先に座って写真
を撮る事になる。年配の観光客も似たようなものである。
聖武天皇は東大寺の守り神として、九州・宇佐の八幡宮・総本宮「宇佐神宮」を勧請し
た。宇佐八幡の分社第一号である。
明治の神仏分離まではお寺とお宮は一心同体で、お寺には必ず守り神があった。例えば、
興福寺と春日大社、薬師寺と休ヶ岡八幡宮、天理の内山永久寺と石上神社などである。
(明治の革命で多くが廃寺になった。天理の内山永久寺も廃寺となり、僅かに「割拝殿(国
宝)」が石上神宮に残るのみである。)